箱庭文学

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Mr.Childrenの『掌』を聴くと、中学1年の時のホームルームを思い出す

ミスチル4人

Mr.Childrenの『掌』を聴くと、中学1年の時のホームルームを思い出す。



中学1年の初夏に、クラスの男子たちの間で内輪揉めが起こった。

ことの発端は、「文化祭の劇の演目」。

数人の男子たちはAがしたいと主張し、対してその子たちとは別の男子たちはBが良いと言い張った。

お互いに頑として譲らず、いつの間にかクラス全体がA派、B派、その他の3つに分かれ、教室内は沈殿したような重苦しい空気で満ちるようになった。




担任のK先生は、この暗鬱な雰囲気を打ち破ろうと、ホームルーム(学活)の時間を割き、話し合いの機会を設けた。

K先生は開口一番「しっかりと互いの気持ちを考えて、話し合って、分かり合いましょう」と言った。


A派が「Aの素晴らしさ」を説けば、負けずにB派は「Bのメリット」を熱弁した。

A派が「Bのダメなところ」を述べれば、B派は声を大にして「Aの現実的ではないところ」を突いた。

話し合いで言葉が途切れることはなかったが、どこまでいっても平行線を辿るばかりだった。



ホームルームの時間が終わろうかという時に、「なかなか分かり合えませんね…」とK先生が言った。

それを聞いた私は、我慢できずに「先生は話し合ったら分かり合えるっていうけど、じゃあなんで先生は離婚したん?」と言ってしまった。

K先生は口ごもり、静かに泣き出した。

しまったと思った。


この時の自分の言葉を振り返ると、改めてひどいなと思う。

配慮に欠けていた。K先生には本当に申し訳ない。もっと別の言い方があった、と今なら思う。



でも私の「考え」自体はその頃とまったく変わっていない。

そもそも「離婚」というのは希望だ。お互いにまったく相容れない価値観を持った相手と一緒にいるのは苦行以外の何物でもない。

人は「幸福」を追求するのだから、それを妨げる要因は排除すべきだ。だから「離婚」は絶望ではなく希望。

「結婚」という合意に縛られながら生きるよりも、それから解き放たれた時の身軽さや心地良さに価値を見出せるのなら、「離婚」は賢明だと私は考える。



K先生がやろうとしていたことは実に不合理だと、昔も今も感じている。

A派、B派、その他、それぞれの手を取り合わせ「結婚(合意)」させようとしていたのだから。


K先生の発言から容易に透けて見える「話し合えば必ず分かり合える」という理念にも嫌気を覚えていた。

話し合うことは重要だけれど、その結果として必ずしも分かり合えるとは限らない。

それぞれにはそれぞれの人生があって、その過程で獲得してきた価値観や考え方はさまざま。

食べ物の好き嫌いが一人一人違うように、音楽の好き嫌いが一人一人違うように、考え方・価値観もまた一人一人違う。

持ち合わせている観念がそれぞれにおいて違うのだから、究極的に分かり合える人もいれば、絶対的に分かり合えない人もいる。それが「人」であり、人が作る「社会」なのだ。

その前提条件をすっ飛ばした、小学校の道徳の教科書から引用したようなK先生の紋切り型の言葉は、まったく私には響かなかった。



傘ふたり

『掌』の中で、ミスチルの桜井さんは唄う。

君は君で僕は僕

そんな当たり前のこと 何でこんなに簡単に

僕ら見失ってしまえるんだろう?

ひとつにならなくてもいいよ

価値観も理念も宗教もさ

ひとつにならなくてもいいよ

認め合うことができるから

それで素晴らしい




分かり合うのではなく、互いの違いを認め合う。

君は君で僕は僕。そのことを心に刻みつけることから、あらゆることは始まる。


中学の時に先生の口から聞きたかった言葉に、私は『掌』で出会った。



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