箱庭文学

圧倒的駄文! 何気ない日常のこと、お仕事のこと、思い出話、与太話、妄想・空想など。

自己完結させている思考や想いを一度紐解く、ということ

京都のカフェにて

昨年末、親友の美咲から、「写真フォルダの大掃除してたら懐かしいのが出てきた!」という文章とともに1枚の写真がLINEで送られてきた。

写真には、芋くさい私と美咲の姿w

これはたぶん私たちが大学1回生のときだから、今から12年ほど前に撮ったもの。

大学生活最初の夏休みを利用して京都へ遊びに来た美咲を、「京都はもうワシの庭やねんで♪」っつって連れまわしたとき、どこかのカフェで撮った1枚だと思う。

ちょうどこの頃は、自分のコーデの路線を青文字系にするか赤文字系にするかで揺れてたときだなw ちなみに左の毒々しささえ感じる原色の赤をこれ見よがしにまとっているのが美咲で、右のガーリーなのが私。さすがにふたりとも顔も服もわけーなぁ、おいw




大学生になると、高校のときとは違って制服がなくなるので、私服を着る機会が大幅に増える。

私は大学生になるのと同時に自然とファッションに興味をもって、そしてそれは今も続いている。


服を選んで着る(=オシャレをする)という、さも当たり前の行為は、その実、非常に興味深い。

服を着ているとき、着ている本人はほとんどの場合自らが着ている服を見ることはない。というか見ることはできない。自分が着ている服を見ているのは、「自分」ではなく「他者」だ。

つまり私たちは、「他者の中に形づくられる自分」のためにオシャレをしていると解せる。

とすれば、「もしこの世から他者が消えて自分たったひとりになったとき、自分はそれでもオシャレをするのか」という問いが同時に成り立つ。

社会学的に考えると、この状況下においては人はオシャレをすることはない。というか、する必要性が生まれない。

オシャレとは群衆の中に自分がいて、その群衆監視下において生まれる感覚。「自分がオシャレである」という社会的承認は他者によってしか得られず、その他者が存在しない条件下ではオシャレという感性は肯定されにくい。



と、今日もこんな感じで、訳のわからないことを相も変わらず書いている。

私は学生のころからさまざまな事象に思考を巡らせるクセのある面倒くさい人間だ。それで爪弾きにされることもしばしばw


私は日記をほぼ毎日書いていて、思い浮かんだ疑問や考えなどを書きつけている。

時々その日記を読み返し、目に留まった「私の想い」や「私の考え」を、自由気ままにブログやインスタで吐き出している。


「自分の意見や考えを書き留めておくだけなら日記で十分。ブログやSNSで発信する必要はない」という人が世の中にはいる。

確かにそれはそのとおりなのだけれど、ブログやSNSに書いて発信するからこその利点があるのもまた事実だ。


ブログやSNSで自分の意見や考えを世の中に発信するとき、発信者は「読み手」を意識する。日記というのは基本自分しか読み返さないので、「読み手」を意識することはない。

「読み手」を意識するだけで、自分の思考というのは驚くほど変わっていく。

頭の中だけにある「思考」を、第三者にわかりやすく伝えるべく言葉に置き換えようとすると、それは自ずと考えの整理につながる。

わかった気になっていた物事や事象を誰かに伝えようと言葉を探して論理立てるとき、そこで思いもよらぬ見落としに気づけたり、新しい発見ができたり、その事象の本質に近づけたり、一方で新しい疑問が生まれたりもする。

自己完結させている思考を紐解いて、「誰か」に伝えるためにふたたび組み上げる。その一連の過程で、「何か」に気づかせてくれるブログやSNSは、やはり日記とは違うもので、その違いに私は価値を見出しているのだろう。

「誰かに伝えたい」という心の動きは、尊く、意義深い。その意義深さが日記にはないのだ。



他者がいるから人はオシャレをするのと同じように、他者が読むから私は「自分の思考」を改めて思惟できる。

2017年、私は「自分の思考」に、いったいどんなオシャレをさせるのでしょうか。

その結果、どんな新鮮な考えや疑問に出会えるのでしょうか。

それらに出会うために、私は2017年もいろんなことを自由気ままに「此処」で書いていくのでしょうね。


それを思うと、始まったばかりのおろしたての一年が、ただただ楽しみです♪



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