箱庭文学

圧倒的駄文! 何気ない日常のこと、お仕事のこと、思い出話、与太話、妄想・空想など。

能天気さをひとまず「幸せ」だとしたとき、自分の幸せのあり方というのは存外わからない

タリーズ

会社の後輩のしおりちゃんに、「ゆき先輩はいつも楽しそうでいいですね♪」と言われた。


私は、私自身が不機嫌な人が苦手なので、自分はそうならないようにと心に留めている。

不機嫌の反対は何かなと考えて、「能天気や!」と思ったので、そういう感じで会社では振舞っている。

でもたぶん不機嫌ではないように振舞おうと意識している時点で、それによって作り出された「能天気さ」というのはまがい物でしかないんだろう、と思う。根っからの能天気さには到底敵わない。

意識なく能天気でいられる人の開放感を、意識しないと能天気でいられない人が知ることはないのだ。



能天気さをひとまず「幸せ」だとしたとき、自分の幸せのあり方というのは存外わからない。

私は笑っているけれど、それは笑いたいから笑っているのか、あるいは周りの状況がそう仕向けているのか、その境界線は思いのほか曖昧で、私は幸せなのか、それとも幸せだと思い込みたいのか、ときどき心が迷子になる。

例えば、友人が声を上げてゲラゲラ笑っていると、「ああ、この子は今幸せなんやな」って単純に思えるのに、こと自分のこととなると訳がわからなくなる。

他人(ひと)の幸せや幸せの切れ端を見つけるのは容易なのに、自分の幸せについてはなかなかどうして自覚的になれない。



とりあえず今日は、仕事帰りに買って帰ったタリーズのカフェラテがめっちゃおいしかったから「幸せ」と思い込むことにしよう。

そうやって「幸せとは何か」を規定する状況を錯覚し、そして錯覚させ、ときに捏造をも伴いながら、生活は続いていくのかもしれない。

そんなどうでもいいことを思いながら、あずかり知らない明日を往こうか。



よろしかったらフォローお願いします!

ツイッターめっちゃやってます♪♪



★LINEもやってます! 限定記事など配信してます♪♪
友だち追加


はてなの読者登録はこちらからどうぞ♪♪



★当ブログのおすすめ記事はこちら♪♪
「箱庭文学」のおすすめ記事を10個ピックアップ!